天明寺は江戸期天明年間以前の歴代住職の記録がありますが、開創、開山についてはよくわかっておりません。明治33年に興舜和尚が伝法潅頂(真言宗において法を弟子に授ける重要な儀式)を本山(奈良県長谷寺)にて修行した記録がありますが、これ以降は住職が常住していた様子も伺えず、法類寺院の兼務するところとなっておりました。
私は母方の祖父であります、大乗寺(高崎市棟高町)第三十九世三津田辨秀僧正のもとに出家し、叔父三津田辨徳僧正を師僧として、その法を受け継ぎ、真言宗豊山派の僧籍を取得し、平成11年3月に天明寺住職を拝命いたしました。
大正大学大学院を修了し、総本山長谷寺にて研修の後、有縁のご寺院のご助法をさせていただきながら、平成16年を目途に天明寺住職として専任し、天明寺再興を志しております。
私が天明寺の住職として専念するまでおおよそ130年もの間、無住の状態でした。池端町には唯一の寺院であり、かつては池端地区のほとんどが檀徒でありましたが、天明寺が無住の状態であったために檀徒の多くは近隣寺院へと移籍されました。住職として専住した当初(平成16年)、檀徒数は30家ほどでありましたが、現在では菩提寺のない家の受け入れや墓地分譲なども行っており、身寄りのない方の遺骨をお預かりするほか、永代供養や自然葬など檀徒以外でも無条件に広く受け入れております。
また、御祈願やご祈祷も積極的に行うなど、様々な行事を催し、地域交流の中心の場所として地元住民の心のより所となり、親しまれる寺院、必要とされる住職となれますように努力を重ねていきたいと考えております。
住職 鈴木 辨望
当寺は江戸中期の天明年間〔1781~1788〕に開創されたことにより天明寺と名づけられたと伝えられておりますが、実際には歴代住職の墓誌に「恵弁 貞享三丙寅天三月廿三日」とあります。このことから推測すると貞享三年〔1688〕には小さな庵を掬んでひっそりと仏道を歩んでいたのかもしれません。
詳しいことはわかりませんが、現在、境内に残されている歴代住職の墓地は十一基ほどあります。
この中に「神通山隠居探隆」とあり、この「探隆」師は文化十三年〔1816〕吉井の延命院より碓氷郡八幡村〔現 高崎市八幡町〕大聖護国寺第三十八世住職に晋み、その後、文政五年〔1822〕に当寺に隠棲し、天保七年十一月廿九日に逝去しております。
このころは寺門は栄え、文殊堂が建立されたのは「天保卯年二月日」とあります。
そもそも大聖護国寺は京都の醍醐寺三宝院を本山とし、上野国南西部を中心に五十五ヶ寺ほど末寺を持つ地方本寺であり、東京音羽にある護国寺の前身でもあります。
当寺はその大聖護国寺の末寺として真言宗の法統を受け継いでおります。
また、当寺は明治23年には群馬郡中央部唯一の尋常高等小学校が開校されております。清里、桃井、明治、駒寄、総社、元総社などの広い範囲から通学していたようですが、明治36年には清里小学校に高等科が併設され、それに伴い、廃校となりました。
現在は奈良県桜井市にあります長谷寺を総本山に真言宗豊山派に所属しており、ご本尊は「不動明王(ふどうみょうおう)」、正式名称は「太子山(たいしさん)神通院(じんつういん)天明寺(てんみょうじ)」と申します。
真言密教(しんごんみっきょう)の歴史は、大乗仏教(だいじょうぶっきょう)を大成する形で7世紀ごろのインドで始まり、やがて中国に伝えられます。そして延暦23年(804)に弘法大師(こうぼうだいし)が長安(現在の西安)にわたって、恵果阿闍梨(けいかあじゃり)から真言密教(しんごんみっきょう)の教えを授(さず)かり、日本へと伝えられました。
弘法大師(こうぼうだいし)によって開宗(かいしゅう)された真言宗(しんごんしゅう)は、東寺(とうじ)や高野山(こうやさん)を中心に広められます。平安の末期に興教大師(こうぎょうだいし)によってさらに新しい力が吹き込まれると、根来寺(ねごろじ)が創建されました。
鎌倉時代になり、頼瑜僧正(らいゆそうじょう)によって新義真言宗(しんぎしんごんしゅう)が成立し、根来寺を中心に栄えましたが、戦国時代の戦渦により、専誉僧正(せんよそうじょう)はじめ多くの僧侶が根来寺を離れることになりました。
その後、豊臣秀長公に招かれた専誉僧正は、奈良の長谷寺(はせでら)で、豊山派(ぶざんは)を興(おこ)します。
派名は長谷寺の山号(さんごう)「豊山(ぶざん)」に由来します。
江戸時代、五代将軍徳川綱吉(とくがわつなよし)公の生母である桂昌院(けいしょういん)が護国寺(ごこくじ)を建立し、護国寺は豊山派の江戸の拠点(きょてん)として末寺(まつじ)を増やしました。現在は、全国に3,000カ寺、僧侶数5,000人、檀信徒数200万人の宗団となっています。
天明寺のご本尊は不動明王です。 鮮やかな塗りの木造です。
インド・中国・日本と三国を経て日本で弘まった経典は大蔵経典として現在でも多数各宗派で読誦されています。
大蔵経典は経・律・論の三蔵を包含するものでこの三蔵に精通していた僧侶に中国では三蔵法師という称号があたえられていました。
西遊記で有名な三蔵法師とは中国からインドへと大乗の教えを求め困難な旅を重ねた玄奘法師がモデルになっています。